はじめに
アトピー性皮膚炎は従来子供の病気とされていましたが、近年、成人の重症例、難治例が増えてきたようです。重い皮膚炎のため学校に行けなくなる、あるいは仕事を続けることができなくなってしまうといった患者さんが少なくありません。時には自宅への引きこもりなど、社会的にドロップアウトしてしまう例もあります。このような悲惨なケースが生まれてしまった背景には、近年のアトピーをめぐる治療法の混乱があり、特にステロイドに対する誤解があるようです。多くの患者さんは「ステロイド=怖い」という印象を持っており、「ステロイドは塗りたくない」とおっしゃる方があとをたちません。しかし、アトピーの治療の基本はステロイド外用薬であるということは全世界の皮膚科医の共通の意見であり、ステロイドなしで治療しようとしてもなかなかうまく行くものではありません。ステロイドを使わない治療にこだわるあまり、皮膚炎が非常に悪化して困っている患者さんをしばしばみかけるのは、大変残念なことです。診察室で、ステロイドの副作用について聞かれることが多いのですが、大変複雑なため、短時間で説明するのは容易ではありません。ここではアトピー性皮膚炎の治療について、ステロイド外用薬を中心に解説してみたいと思います。
アトピー性皮膚炎とは
アトピー素因という生まれつきの体質を持つ人にできる、慢性かつ再発性の湿疹をアトピー性皮膚炎といいます。非常に痒いのが特徴で、喘息を合併しやすく、遺伝傾向がみられます。子供に多く、従来は大人になるまでに治るものとされていましたが、最近は成人型のアトピー性皮膚炎が増えてきました。特に大人のアトピーは顔面に強い症状が出ることが多く、患者さんにとって大きな苦痛となります。
アトピー性皮膚炎の治療薬
この病気は遺伝的な体質が原因ですが、現在の医学ではこの体質(アトピー素因)を変えて湿疹を出なくするという治療は不可能です。そこで治療としては、現在ある湿疹を飲み薬や塗り薬によって抑えるという、一種の対症療法を行うことになります。アトピー性皮膚炎の患者さんが皮膚科を受診すると、飲み薬として抗アレルギー薬や抗ヒスタミン薬を、塗り薬としてステロイド薬を処方されるのが普通です。飲み薬は痒み止め効果がありますし、ステロイドの塗り薬は湿疹を直接改善する作用があります。対症療法といっても馬鹿にしたものではなく、その時の症状に合わせた適切な薬を選び、長期間根気良く治療を続けていきますと、ほとんどの患者さんは通常の社会生活に支障のない程度に症状をコントロールすることができます。
ステロイドが怖い
10年くらい前から、アトピーの患者さんで、ステロイドはなるべく塗りたくない、塗るとしても非常に弱いものをごくわずかしか塗りたくない、時には、何があっても塗りたくない、というような考えを口にする人が目に付くようになりました。重症のアトピー性皮膚炎であるのにステロイドを塗らないと決心している人がいて、そのような患者さんの皮膚は悲惨そのものです。目の前に有効な薬があるのにどうして塗りたくないのか尋ねてみますと、いろいろな答えが返ってきます。
ステロイドとは何か
人間の体内で分泌されるホルモンといわれる一連の物質の中に、ステロイド環という共通の化学構造を持つものがあり、これらをステロイドホルモンと呼びます。副腎皮質から分泌される副腎皮質ホルモン、性腺(卵巣や精巣)から分泌される男性ホルモンや女性ホルモンがこれに当たりますが、副腎皮質ホルモンのうち、糖質コルチコイドと呼ばれるものは炎症を抑える力が非常に強いことが分かりました。すぐに病気の治療に使われるようになり、50年以上前にリウマチの薬として使われたのが最初ですが、その驚くべき効果から「リウマチの奇跡」と呼ばれたほどです。リウマチのほかにも様々な原因不明の難病に優れた効果を示し、たくさんの人の命を救ってきました。そして、より強力な抗炎症作用を持つ合成ステロイドが次々と開発されました。このようにステロイド治療は長い歴史を持っており、その効果、副作用ともに十分な知識と経験が積み重ねられてきています。
アトピー性皮膚炎とステロイド
アトピー性皮膚炎の患者さんにステロイドを内服してもらうと素晴らしい効果が現れるのですが、長期内服するといろいろな副作用が出てしまいます。皮膚だけにステロイドが届けばよいのだから、内服ではなく外用の形で塗った方がよいのではないかとの考えから、アトピー性皮膚炎にステロイド外用薬が試されました。その結果、内服するときのような危険な副作用がなく、なおかつ十分な効果があることがわかり、現在世界的な標準治療としてステロイド外用薬が広く使われています。たくさんの種類の合成ステロイド外用薬が開発されており、効果の強さによりランク分けされて、適当な強さのものを選べるようになっています。外用薬には後述のように外用薬独特の副作用があり、強い薬は効果がよい反面副作用も強いものです。十分な効果を上げながら副作用は最小にするように、薬を選び、上手な塗り方を指導するのが我々皮膚科医の腕の見せ所です。
ステロイド外用薬の副作用
ステロイド外用薬の副作用は理論的に2種類に分けて考えることができます。ひとつは薬を塗った場所の皮膚に現れる副作用で、局所的副作用と呼びます。ステロイドを塗ると皮膚の代謝や免疫にいろいろな変化が現れるのですが、そのために生ずる好ましくない現象のことをこのように呼ぶわけです。これはあくまでも「塗った場所の皮膚のみ」に現れる現象であることを強調しておきたいと思います。もうひとつは、塗ったステロイドが皮膚から吸収されて血管に入り、全身に回ることによって起こる副作用で、全身的副作用と呼びます。ステロイドを内服薬や静脈注射の形で全身的に投与したときに現れる副作用と、基本的には同じものです。
局所的副作用
1)細菌、真菌感染の誘発
ステロイドには免疫(外界から侵入する微生物と闘う働き)を抑える作用があるため、細菌や真菌(かびの類)の感染に弱くなります。毛穴の細菌感染症であるニキビや毛嚢炎が起こりやすくなり、かびによる白癬(みずむし、たむし)、カンジダ症などが起こりやすくなります。特にニキビと毛嚢炎は頻度が高いため、注意が必要です。我々は、ステロイドを塗っている場所の皮膚は定期的に観察し、このような兆候があればすぐに適切な処置を行うように心掛けています。抗生物質や抗真菌薬を投与するなどすれば、比較的簡単に治りますが、アトピーの患者さんで顔面に湿疹とニキビが両方見られる場合には、ステロイドを塗るとニキビが悪くなる、やめると湿疹が悪くなるという形になって、かなり悩まされることもあります。
2)皮膚萎縮
ステロイドを長く塗っていると、皮膚の厚さの大部分を占める膠原線維が減ってくるため、皮膚が萎縮して薄くなります。強いステロイドを長期間連続的に塗った場合に見られますが、弱いステロイドや、強いものでもさほどたくさん使っていない場合には、皮膚萎縮は見られません。表面にちりめん状の細かい皺がよる、下の静脈が透けて見える、つまむと薄い感じがするなどの症状が現れますが、痛みや痒みはないため、本人は気付いていないことが多いものです。塗るのを止めると徐々に回復していきますが、老人では回復が遅い傾向があります。
3)毛細血管拡張
顔に長期間ステロイドを塗っていると、頬のあたりを中心に、拡張した血管が蛇行してみえるようになることがあります。後述の酒さ様皮膚炎の一症状でもあります。顔以外では、陰部や頭皮など、ステロイドの吸収がよい場所に現れることがあります。
4)多毛
ステロイドには男性ホルモンに近い作用もありますので、腕や脚などに長期間塗っていると、その部分の毛が濃くなることがあります。子供や女性など、そもそも男性ホルモンの分泌の少ない人に現れやすいようですが、あまり頻度は高くありません。塗るのを止めれば元に戻ります。
5)色素異常
ステロイドを塗ると色素沈着が起こるという俗説が、どういうわけか広く信じられています。湿疹などの皮膚の炎症が治った後には一時的に色素沈着が残ることは以前から知られており、炎症後色素沈着と呼ばれます。時間はかかりますが、やがて自然に消えていく性質のものです。やけどのあとがしばらく茶色く残って、消えるまでに何か月もかかったという経験は、だれもが持っていると思いますが、これが炎症後色素沈着です。湿疹にステロイドを塗って、炎症による赤さや腫れが治まったあとには炎症後色素沈着が残りますが、どうやらこれがステロイドの副作用と誤解されたようです。よく観察していますと、ステロイドには色素沈着を起こす作用はなく、むしろ色素脱失(色が抜けて白くなる)を起こす方向に働くことが観察されます。ステロイドによる色素脱失は、非常に強いステロイドを長期間塗った場合にしか見られず、かなりまれな副作用です。もちろん塗るのを止めると元に戻ります。
6)ステロイド紫斑
ステロイドを長く塗っていると毛細血管がもろくなり、内出血を起こしやすくなります。表面に出血することはなく、痛みもなく自然に消えていきますので、さほと問題になりません。老人に多く、若い人にはほとんど見られません。
7)しゅさ様皮膚炎
顔面はステロイドの副作用を起こしやすい部位で、長期間塗っていると、毛細血管拡張、皮膚萎縮、ニキビ様発疹が目立つようになり、しゅさ様皮膚炎と呼ばれます。ステロイドを塗り続けると悪くなる一方で、直ちに止めなくてはなりません。一時的に、赤み、腫れ、ほてり感が強くなり非常に悪化しますが、ひどいのは1-2週の間で、以後は徐々に治っていきます。しゅさ様皮膚炎はこれまで述べた副作用の中で、最も患者に苦痛を与えるもので、決して起こしてはならない副作用です。顔面には強いステロイドは塗らない、必要最小限の処方にして、定期的に診察するなどの注意により防ぐことができます。
局所的副作用のまとめ
以上述べたことをまとめて、以下が結論されます。
全身的副作用
ステロイドを塗ると、どのくらいが吸収されて血液の中に入るのかという問題については、たくさんの研究結果が出ています。詳しいことは省略しますが、非常に強いステロイドを常識はずれの大量使わない限り、血液の中に入るステロイドはごく微量であり、全身的な副作用を起こすことほどの量にはならないことが分かっています。血液に中にどのくらいのステロイドが入るとどのような副作用がでるかについても、よく分かっています。膠原病やネフローゼなどでは、ステロイドを長期間内服している人がたくさんいるので、その場合に現れる副作用が詳しく調べられています。代表的な副作用として、易感染性(肺炎などの感染症を起こしやすい)、高血圧、糖尿病、満月様顔貌(顔が丸くなる)、骨粗鬆症(骨がもろくなる)、白内障、緑内障などが挙げられます。実際の臨床の現場で、ステロイドの外用によりこれらの副作用を起こす例は、全くといってよいほど見られません。ステロイドが怖いというアトピー性皮膚炎の患者さんの多くは、実際はほとんど問題にならない全身的副作用を、しばしば起こるものと誤解しているのかもしれません。またアトピー性皮膚炎に合併しやすい白内障が、ステロイド外用薬のせいではないかと議論されたこともありますが、現在ではその因果関係は否定されています。
リバウンドとは何か
ある病気がそれに対する有効な薬剤によって治療されている時に、その薬を急に止めてしまえば病気が悪くなるのは当たり前ですが、単に治療前の状態に戻るといった程度でなく、別の症状も加わってもっと悪い状態になってしまうようなケースをリバウンドと呼んでいるようです。ステロイド外用薬についていえば、しゅさ様皮膚炎では中止によるリバウンドが起こることは明らかです。では一般のアトピー性皮膚炎において、ステロイド外用中止によるリバウンドが起こり得るものでしょうか。私自身はステロイドを急に中止するということは行わないので、リバウンド例を経験したことはありませんが、強いステロイドを大量に使って何とか抑えているような例では、急に止めてしまうとひどい症状がでるということは有り得ないことではないかも知れません。しかしそうだとしても、不適切な時期に急に止めるのが悪いのであって、ステロイドを使うことが悪いわけではありません。リバウンドを起こさないように、上手に使っていけばよいのです。
アトピービジネス
ステロイド外用薬に対する誤った認識が広まるのと相前後して、ステロイドを使わずにアトピーを治すといってたくさんの患者さんを集める医療機関や団体が出現し始めました。その多くは、(1)営利を目的とし(2)ステロイドを中心とする既存治療を否定して患者を不安に陥れ(3)奇跡の特殊治療として効果を誇大に宣伝し(4)法外な料金を請求する、という特徴があります。中にはマルチ商法まがい、サギまがいの悪質なものもあります。医療行為と呼べるようなものではなく、アトピービジネスと呼ぶのがふさわしいでしょう。治療法としては、温泉療法、水治療、特殊なお茶、健康食品、入浴剤など様々ですが、医学的根拠は全く無いものばかりです。根拠がなくても本当に有効で多くの患者が救われているというならよいのですが、実際は被害者がたくさん出ている現実があります。もっとくわしく知りたい方は、「アトピービジネス」(竹原和彦著、文春新書、660円)が参考になります。
おわりに
ここまで読めばお分かりの通り、多くの患者さんが感じているステロイドに対する恐怖は、誤った情報と誤解に基づくものであり、正しく使えば大変有用な薬です。ステロイドを使わない治療にこだわるあまり、重い皮膚炎に苦しんでいる人がまだまだたくさんいるというのは、心痛む現実です。ステロイド外用薬の副作用を熟知し、正しく使えるのは皮膚科の専門医だけです。皮膚科専門医の名簿は日本皮膚科学会のホームページで公開されているので、専門医をさがす参考にして下さい。もしお知り合いの方などでアトピーで苦しんでいる人がいるようでしたら、ぜひこの一文を読むように勧めてみて頂ければ幸いです。